l’esprit de continuer à rechercher -le spleen

初代 竹内洋岳に聞く

 

初代 竹内洋岳に聞く (ちくま文庫)

初代 竹内洋岳に聞く (ちくま文庫)

 

500ページ近くあるが,面白くて5日ほどで読み終えてしまった.登山の経験は全くないのだけど,登山家の生き方に憧れがあって,登山に関する伝記やドキュメンタリーはよく読む.8000mを超える山が世界には14つあって,語り手の竹内さんは現在そのすべてに登頂した唯一の日本人である.でも,彼はそのことを誇るのではなく,メートル法で測ったらたまたま14つあっただけのことで,標高は山の個性の一つに過ぎない,本来山は一つしかなく,その山に登ることが楽しいのだ,というふうに言う.登山家というと栄光に生命を賭けるストイックな人というようなイメージを持ってしまいがちだけど,そんなイメージとはかけ離れた陽気さと,何より明晰さが記録以上に魅力的な人だ.

彼の考え方で,ゲームにも応用できるかもしれない,と感じたところが幾つかあったので,自分自身の考えをまとめるためにも,引用して紹介する.

私ね,道具が好きなんですね.使える道具が増えるということがとても面白いですね.それをつけることで,自分の能力が高まるような,ピッケルとアイゼンをつけることで.自分がいままで登れなかった所が登れるようになる.パワーを手に入れるような感じになる.それはね,とてもとても快感ですよ.

これは,ドフスにおける装備のようなものかもしれないと思う.装備を新しくすることで,キャラクターができることの幅が広がり,それが結果として操作者の可能性を押し拡げてくれる.一方で竹内さんは,登山はスポーツでなければならないから,どんな道具を使ったのか,自分自身でルールを決めて守らなければならない,とも言っている(例えば昔は覚醒剤を打ちながら登った人もいるそうだ.)

山登りの技術というのは,道具が変わってテクニックが変わっていくと,積み重ねていくんじゃなくて,新しいものにどんどん取り替えていくものなんです.新しい道具なり,新しい技術を積極的に取り入れられるかどうかというのがすごく重要なんです.

組織登山か,私がしているような個人登山か,極地法かアルパインスタイルか,と限定することは,自分の登山の可能性やチャンスを狭めることになるんだと思います.とにかく私は,どんな組織であれ,登る状況に自分を置きたいと思っています. 

道具によって拡がった可能性を,自分自身のつまらないこだわりによって潰してしまうのは勿体無い,常に臨機応変であれ.その根底には,山やそれを登っている時の感覚が好き,という気持ちがあって,それを楽しむためにやっている,という大前提を忘れないようにしよう,ということだろう.

靴下一枚にも拘るのは,私たちの登山というのは,100パーセントじゃないと登れないからです.99.99パーセントでは登れないんです.何かが一つでも欠けたら登れないと思うんです.
高所というのは不確定な要素がすごく多いんですよ.例えば,天気とか体調とかルートコンディションとかいうのは行ってみないとわからない.頂上に立ち,帰ってきた時点でしか,100パーセントだったといえないという非常に面白い世界なんです.だからこそ,自分の手中にあるところでは,99パーセントでは困るんです.
チャンスを逃したくないですから.
自分が用意できるもの,例えば,道具とか着るものとか靴下もそうですけども,あと情報とか.自分でコントロールできる部分は絶対100パーセントにしておかないと,そこで99.99パーセントだったら,天気が良くても体調が良くても100パーセントにはならないと,私は考えているんです.

不確定と確定の線引きを明確に行い,確定要素については徹底的に把握しておくこと.ドフスで言えば地形や敵味方の構成,初見の相手の属性,試合中はダメージの幅やインビジに対する相手の読み筋などは不確定要素になる.一方で装備の魔術や,ゲーム環境(マウスや体調)の整備は勝つために抜かりなくやらなければならない.

そして,実際の登山では行動によって不確定要素を連続的に確定させていく(確定と不確定の境界を,不確定の側に押しやっていく)のだが,そこで大切になるのが想像力であるという.

登山の行程をシミュレーションしていくんですが,実際に行ってみると,そのシミュレーション通りになるというリアリティもあれば,ならないというリアリティもあるわけですね.そういうことの対処法は,習慣的に常にやっているような気はします.
例えば,岩を登っていって,手や足がフォールドから外れる,ロープが引っかかる,プロテクションが外れてしまうとか,という理由で落ちる危険性があるというのは,漠然と考えているだけなんですよ.それを,もっと具体的に,足を踏み外した時の手の位置だとか,ロープがどう捻れたとか,どのプロテクションが抜けたのかと,イメージが具体的であればあるほど対処方法が考えられるわけです.
それは決して防御としての想像力だけではなくて,そういうことを考えながらも同時に,じゃあ,そこをどういうふうにして越えていくということを可能にする想像力でもあるんです.

シミュレーションというのは, ただ言葉の上っ面だけ取ると,すごく浅い感じがしますし,最初から最後までをなぞるようなイメージがありますけど,そうじゃないんです.いろいろな方向から,いろいろな段階のことを,いっぺんに想像できるか,選択肢を並べられるか,というのが想像力だと思います.
百個くらいまで思い浮かべられても,一歩足を踏み出した途端に,五十ぐらいに選択肢は減ったり,三歩か四歩歩いて,握っているアックスの感触で三十くらいにまで減ったり,逆に,倍に増える場合もありますね.

ここが,この本の中でいちばん唸った箇所. それは,これまでコロッシウムにおいて自分がなんとなく,つまり不徹底に行っていたことが言葉にして表されていたから.動いていない5/6の時間ではもちろんあれこれ考えていたわけだけど,想定するパターンの数も彼ほどは多くないし,それが「こうだったらいいな」という願望になってしまっていたことも多い.冬の山でそれは直ちに死につながるが,電脳の世界で負けても死ぬのはキャラクターだからと,簡単に云えば甘えていたのだ.
同時に,彼はこんなことも言っている.

リアリティのある想像は経験からしか生まれないんです.

そのような想像力から,彼の登山への態度の根本や死生観までは一歩で,そして,そこでストイックネスよりも明るさが先に立つのも,その想像力のためだった.(かといって,彼がストイックではないとは全く思わないけれど.)

私が登山に今携わっている状態というのは,根底に何か精神的なものを追い込んで,自らモチベーションを高めて登山に向かっているわけじゃないんです.そういうことは,いまのところ,自分の中から自然には出てきてないですね.ただ,山登りが楽しいというか,面白い方が先行しちゃっていて,そういう段階ではないです.

どちらかというと,死が身近な故に,危険が見えるので,あっ,ここは死ぬかもしれないないからやめようとか,こうなって落ちたら死ぬかもしれないから,こういうふうに対処しようと考えられるんです.死を身近に考えるからこそ避けられるんだと思います.

死が身近にあることと,死んでもいいと思って,死に寄っていったり,その中に入っていくのとは違います.
死んでもいいやなんて思っていませんね,これっぽっちも.

普通の人なら,8000メートルに登ること自体が死です.
そこに何度も行く,その行為には,大きな危険を切り抜けられる技術や判断力を持って行っているのだという部分は,どんなに説明しても他の人たちは理解することはできないと思うんです.

楽しいからやる,という意味では自分にとってのゲームと一緒ではあるけど,彼がしているのは判断のミスや考えの甘さが直ちに死につながる遊戯である.そう考えたとき,これまで自分にとってのゲームと比較することでわかった気持ちになっていた彼のことが,全くわからなくなってしまった(笑)しかしいずれにせよ,命を賭けて真剣に考え,楽しんでいる方から学ぶものがたくさんあった.